西念寺のこと

西念寺由緒

西念寺歴代住職の墓


毛利元就が九州の立花城を攻めた際に、手柄のあった然休上人を開基とした浄土宗の寺院である西念寺。
境内は狭かった谷の岩盤を毛利家の手勢が手掘りで切り拓いたものと伝えられています。西念寺の中庭には元就手植えの紅梅があったなど、元就ゆかりの地の一つでもあります。

開創

もと温泉津法泉町の禅宗寺院、海蔵寺の末寺で西念庵と言う小庵があった。
これを温泉津在地の浄土宗信者が譲り受けて別時念仏を修行したのが始まりである。
 
開山源譽上人は浄土宗大本山清浄華院二十八代法主、満蓮社定譽三休上人(後に隠棲して大田市波根長福寺開山)の直弟で請われて西念寺開山となられた方である。

温泉津は読んで字の如く、古くから開けた温泉と港の町である。
当時、石見銀山の銀積出港としていよいよ隆盛に向かう港町は活気にあふれ、狭い谷間に家々は軒を連ねて余分な土地が無く、信徒達は良い寺地を探しあぐねていた。

創建

その頃銀山を制圧した毛利元就は長福寺三休上人に深く帰依しており、高齢の上人に代わって直弟念休上人が伽僧として戦場に供をする事が多かった。

その褒賞として西念寺寺地安堵の奉書を受け、長州の軍勢の加勢を得て岩山を切り開き七間四面の堂宇を建立、ここに今日の西念寺の基礎が築かれたのである。

発展

時に永禄四年(西暦一五六一年)三月であった。爾来四百五十余年、法灯は連綿として受け継がれ今日に到っている。

第二十世念譽隆乗上人は西念寺中興の名僧で学徳共に備わり、人々の信望篤く、遷化の際は西念寺を包んで五色の雲がたなびいたと今に語り伝えられている。

念譽上人積年の功を讃えて大本山より純金三衣被着の許可が与えられたが上人は「功は我一人のものにあらず、檀信徒の協力の賜物である」としてこれを辞退された為、改めて清浄華院より西念寺に対し、「布教別院」の称号を下付された。明治二十一年の事であった。
今でも西念寺本堂正面には当時の御法主齎譽上人直筆の「布教別院」の扁額が掲げられている。

現在の西念寺

時移り、銀山は衰微し温泉津の町も昔日の面影は無いが、檀信徒によって組織される西念寺護持会及び明照婦人会があり、月一回の詠唱講等地道な活動を続けている。

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